昭和40年10月02日 夜の御理解
世間には信心がなかっても、心の大きな人がおる。そら信心があっても、同じ様なことが言えるんだけれども、清濁あい飲むというか。どんなことでも、自分の心に納めて、成程それは、有難いのだけれども、信心でいうその豊かな心、美しい豊かな心と。大海には鯨が住もうがと仰るようなその、それとは大変違うようですね。今日私そういう方のお取次ぎをさせていただいた。
なかなか私はほんとに感心してから、そういう時に驚かんで済む、そういう時にこの平然としておれるということは、ほんとに心の大きい方だなあとこう思うた。ところがです。つい神様にその事をお礼申し上げさせてもらいよりましたら、大きなぶりの鰤のような、どばっとしたような大きな魚のですね、おなかの大きいこんなに大きいその魚を頂いてから、その腹をこう断ち割ってみる下さるんですね。
ところがね、お腹が大きければ大きいだけ、いわばジゴがおいいと仰る。もう私はそれ頂いてからですね、ほんとにあの、神様がいただかなきゃ分からんと思うです。お腹が大きいごたるけれどもね。大きければ大きいだけ汚いとこが多いち言うわけ。ジゴがおいしいち。それはもうそんなこつ言いよったっちゃ損になるけんで、大きゅうなったち。もうガタガタ、黙ってもう、腹かかする奴には腹かかせとかにゃ。ね。
それがこっちまで腹かきよたら、こっちが馬鹿らしかちけん、腹かかんとというのではいけないわけですね。いわゆるあのとてもなかなか、あっちはなかなか腹がしっかりしてあるきというようなほどですね、腹がしっかりしてあるほどこれは、ジゴが多いわけですよ。ね。ガチャガチャ言いよったら、馬鹿らしかもん。損になる。ね。というようなそれとは違うわけですね。
今あの野口つぁんから電話架かってまいりましてから、ついこの頃まであちらに下宿しておられて、息子さんと一緒にあの、お父さんが勤めておられる会社に勤めておられた方がですね、熊本のほうへ行っとられたんですね。息子さんも一緒でしょう。それでその事故にあわれましてから、重態という電報が来たという。そしたら次には亡くなったという電報が来たと。もうほんとにもう人事では、もちろん息子と一緒に友達でとても仲良うしとったですげなけんね。
あまり人事とは思われますめいけれども、私はそれを聞かせてお届けさせて頂いた時に、もう何か知らんけれどその、本当に何かこちらの祈りが足りなかった様な気がするんですよね。野口つぁんを通して縁があり、その事をあのお詫びさせて頂いて、あのおりましたら只今頂くようにその、御理解をその含めて頂きましてですね。私達の、豊かな大きな心というのはね、本当に自分の豊かな大きな心の中にはですね。
例えば人が言いよっても、腹を立てんというのは、もう清めて行きよるとです。もう腹立ってこらえとりなさるばってん、もう清めていきよるとです。だから清めていきよるから相手も助かっていきよるです。ね。それはね結局ほんならそれが分かるのは、自分がどれ程です。自分がどれ程自分の周囲自分以外の事が真剣に、自分の事として祈れておるかという事なんです。自分のお腹が大きい信心で言う豊かに大きいとか。
四神様が大海には鯨が住もうがと仰るような意味合いにおいての、大きなおかげの頂けれる、いわゆるどん腹というのは、そういうような意味なんです。私共はどん腹をしっかりと、こういうような事を言うけれどもですね。それだけじゃない。それはむしろ返って、それこそ小さいことが気になって、気になってたまらんという、心の小さい人がある。私共は、そういう部類なんです。
もう小さいことが、心に掛かって掛かってたまらんのです。けれども私共は小さいけれどもですね。もう小さいからそれをみんな信心で清めていく。浄化していくわけです。してみると大きい心よりも、その小さい心でしかも小さい心でその、何時もクーっとしとるというのじゃなくてですたいね。いわゆる心配いろんな人の心配をかつがつその、安心にきいて、気に掛かることを神様におすがりさせて頂いて、こう浄化をしていく清めていくという、それのほうがどれくらいましか分からん。
そしてそれが自ずとこう、豊かに大きゅうなって行くのであって、本当のものだということが分かるですねえ。明日草野の小学校の、運動会があるわけなんです。それであの子供達、明日のそのまあ、楽しみにしておるわけなんですけど、いまその私の足をもんでくれながら、幹三郎と栄四郎と二人で話すことですたいね。「明日一丁神様にようと御願いして一番になるごと、お父さん御願いしとって」げな。
「そんならお父さんの足をもまにゃ、その御徳をいただいとかにゃ勝てんよ」と、二人で一生懸命足を揉みよるとですもんね。それで私が足を揉んでもらいながら言うとですたい。もう一番にならんでも、二番にならんでもいいどべでも良か。一生懸命走らせて頂いてから、それでもう兎に角運動会の皆んなのその、運動会だから僕達だけの運動会じゃないのだから、皆んなが怪我過ちやらないごと、愉快にその運動会が出来れば良いじゃないかというたら、栄四郎が言うこつですもん。
「そらそうたい、ご褒美は一様に貰うとじゃけん」ち言いよる。(一同笑い)昔はあの、勝ったもんだけだったですもんね。今はもう一様に頂くわけですたい。そらそうたいもう、(はあっはっはっは)みんなの運動会をする人、見物をする人みんなが、あの気持ちよう面白う愉快な運動会であれば、それで良いと例えば、翌朝皆さんが運動会である、そのそういう意味で子供だけがと言うふうじゃ、私共が信心させて貰やあそらその運動会全体が、おかげ頂かれるように願われるわけなんですけど。
例えば願われておるから、自分の心がそれだけ大きいということは分からないわけです。それは自分の心が大きいという事をです。ほんとに自分の人の難儀がですたいね。その自分のこととしてどの程度に、深く広く願われておるかという事を見れば、自分の心の豊かさ美しさ広さということが、分かるわけなんです。金光様が今上に飛行機が通っていますなと。どうぞあの飛行機が目的地に参りまして、無事に帰ることが出来ます様にと言うて、御願いいたしますのじゃと仰った。
今、子供が泣いておりますが、どこにあんなにむつがっておるが、どこか痛い痒いが有るかも知れん。どうぞ神様ご守護を下さって、おかげを下さいと言うて願うのじゃと言う意味のことを金光様は仰っておらますですねえ。それが本当にそのもう、上を通っている飛行機の音を聞かれたら、もうその飛行機のことを祈られにゃおられないという心なんです。子供が泣いておればです。
その子供がどっか痛い痒いがあるのじゃなかろうかと、こう思うて、その事を撫でさすりするような気持ちで祈られる、その心のことなんです。豊かな大きな心とは。でもほんとにあの人は、どん腹がしっかりした人じゃと。いわば清濁あい飲むと言う様なのは、まあ褒め言葉としてから、みんなは言うんですけれども、清濁あい飲むと言う様なのはむしろ、腹が汚いのだと。腹が大きければ大きいだけジゴが多い。
そういうようなのでは無いという事をです。私、今日、御理解いただいて初めて、分からせていただいたんですけれども、そういう意味合いでなら、私共の心は小さい、小さい。もう、ケシ粒のように小さい。もうその証拠にはちょっとした事が気になって、気になってたまらない。立ち上がるときに、もうのどやらがこげん言いよったらもう、立ち上がってこられない私実際。からやっぱり、もうこげんしなければ、そのとおりが過ごされんくらいに、私の心は小さいですから。
小さい問題が、起こるともうそれで心配になる。それが気に掛かる。気に掛かるけれども、直ぐ神様にすがる願うという、その心でそれを安心に、それを清めていくところにです。まあ私は私の信心があると思うが、それがだんだん、こう豊かに大きく育っていく。大きく成って行くということが、有り難いことである。その他人の誰かのことであろうがです。ほんとに私の祈りが足りなかったとこう、詫びれれる心。ね。
他人の誰かのことでも、自分のこととしてやはり、神様におすがりできるような心を持って、私は豊かな大きな心だとこう思う。それが豊かに大きくなっていけば行くほど、だからおかげが大きいというのと、どん腹がしっかりしておってから、清濁あい飲むようなところから。おおきに商売が繁盛しておるとか、事業が具合よういっているとかというのはです。なるほどその、損するから腹立てんというのですから。
まあそのう損はしよらんでしょう。確かにそういうところに人も集まってくるでしょうけれども、その内容の性質が違うでしょうが。片一方は神様のご信用を受けていくいき方であり、片一方はあら、なかなかどん腹のしっかりしたとみんなが言うけれど、なかなかいうなら、腹がしっかりしてあるということは、腹が汚い人じゃなあという事になってくるわけなんです。それで大きくなった分ではつまらないということですね。
おかげ頂かれますように。